志賀島さのさ

花柳界で唄われていたと解説する向きもあるらしいが、全くの誤りである。志賀島は漁村であり、花街はない。歌詞を見てもわかるように、玄界灘の荒波で鍛えられた漁師と、それを送り出す家族の気持ちを唄っている。一の糸を開放弦で弾き、波の音を表現している箇所もある。全体的にはずんで聞こえるが弾くときは極く軽くはずむだけである。民謡ではあるが、三味線の手は音を消すところ、指をスライドさせながら着地させるところ、撥をあててから数ミリだけ指をずらして音色を変えるところ、三味線の音を小さくして唄を主に聞かせるところなど、技巧的な個所がいくつもある。歌詞にエンヤラヤーノ サノサとあるが、これは五島あたりの鯨とりの舟唄「エンヤラヤ」が平戸で変化した「平戸節」から影響を受けてこさえられたものである。この「エンヤラヤ」は九州地方だけでなく、船乗りたちによって全国各地の港に持ち込まれ、例えば「最上川船唄」などに変化したらしい。ちなみに、本来は「唄」というのは村の人たちが歌うものであり、「節」というのは職業的な人たちが歌うものを指すそうだ。

三下り博多節

おそらく絶滅している曲と思われる。博多の古民謡の振興・保存の活動をされている博多那能津会が編集・制作された「博多古謡集」に博多節三題がある。「博多節(ドッコイショ)」、「正調博多節」、そして「三下り博多節」である。前2曲についてはその謂われが江戸時代の文化(元号)から大正時代に至るまで詳しく記載されている(以前にここで「正調博多節」や「博多節」について記載した内容についても、この古謡集ベースに大幅に加筆しなければならないほどである)。しかしながら、「三下り博多節」については、中洲の清元孝次郎によるものとされているだけであり、座敷芸がなくなってくるにつれ、幻の三下りとして消えていくと思われたとのみ記載されている。福岡市内でこの曲が収録されているレコードやカセットテープがないかと、何軒か古レコード店や古書店を回ったが見つけることができなかった。音源がなかったので、家元にお手本をいただいた。正調博多節を思わせる節回しもあるが、さきほどの前2曲とは雰囲気が異なる。とてもしっとりとした三下りらしい曲である。現在、博多券番によれば立方・地方いれて全部で13名の芸妓衆が在籍しているようであるが、この三下り博多節を知っている方はいるのであろうか。決して賑やかな曲ではないが、柳結びに締めた芸妓が座敷で踊る姿を見てみたいものである。

天翔ける

「てん」翔けるではなく、「あま」翔けると振ってある。以前に稽古をつけていただいた「ゑ歌留多」が十二支のうち丁亥(ひのとい)を唄った曲であるが、「天翔ける」は十二支のうち辰を唄ったものである。自分が辰年生まれであるので、お願いして譜面を整えていただいた。

 曲の冒頭からこのような三味線音楽は聴いたことがないというような気持にさせてくれる。全体的に力強く、そして平らにならないように演奏することが肝心な曲である。例えば、勘所を摺り上げながら弾くところがあり、これによりはっきりした音が出る。他にも武張って弾くところ、長唄のように力強く弾くところがある一方で、撥を皮に当てずに浮かしながら繊細にスクウところ、撥をコカスところ、間を詰めて早く弾くコケ間のところなどがあり、いろいろな技巧が散りばめられている。そのために曲全体が波打つように聞こえる。龍は波打つ姿がよく描写されるが、単に波打つだけでなく、あたかも自分で太さを変えているようなダイナミックな姿を思い浮かべながら演奏しないといけないと教わった。歌詞も非常に縁起がよい。

博多節

「正調博多節」の稽古の際に、「博多節」からの由来のことは勉強していたので、いつか「博多節」はやってみたいとは思っていた。前にも書いたが、もともとの「博多節」は、明治の初めに島根県石見地方で唄われていた「ドッコイショ」という唄だったそうで、「ハイ今晩ハ」という門付け芸の性格を帯びていたために、当時の博多の花柳界や旦那衆は「乞食節」と呼んでいたと聞いていた。「博多節」の譜面を取り寄せて練習をしてみたところ、さほど難しい三味線の手でもなかったので、やはり少々俗っぽい民謡かなと思っていた。手元にあったCDに収録されていた宮川 廉一氏による「博多節」を聞いても、良い意味で田舎っぽい匂いのする曲に感じていた。さて、何度か譜面を浚ってそのような気軽な稽古に臨んだところ、家元から今まで聞いたことのないような「博多節」をお手本で演奏いただき、全く180度良い方向に期待が裏切られてしまった。これは「正調博多節」よりも繊細な曲であるとも感じられた。以前にこの曲は、「今晩はの博多節」とか、「石見博多節」と呼ばれると書いたが、「本博多節」と呼ばれるほど、こちらが本物の博多節であり、正調の方は”八百長”であるという話もあるそうだ。古くは中世の「説教節」をルーツに思わせるところがあり、秋田雄物川地方で「岡本っ子」の名で親しまれていた「岡本新内」とも似ているところがあるという。そもそも琵琶の三下がりを上げて三味線の本調子が生まれたことから、北九州から来た琵琶法師とも関係があるという説もあるようだ。

とにかく一見三味線の手が素朴なようでいて、隠し味が満載であり、「正調博多節」よりも技巧的であるようにも思う。打ち放しの音を聞かせないといけない箇所や、通常は使わないような擦りもある。指を変えたと思わせないような指の運びが要求されるところもある。3の糸の開放弦が何度も出てくるが、ただ単に開放弦を弾くのではなく、そこに意識を払うように指導されるし、ハジキも単なるハジキはなく、前後の音が繋がっているように弾く必要がある。そして、間の取り方が絶妙なところが何か所もあるし、小間から大間、そして小間に戻るような大間打ち換えという間の取り方が必要なところもある。「博多節」は民謡とは言い難いほど洗練されている。門付け芸の性格を帯びていたので、嫌気されていたというのは本当なのだろうか。

いろいろ調べてみると、泉鏡花の代表作である『歌行燈』に門付がいい声で「博多節」を聞かせる場面が何度か出てくる。是非映像で見たいと探してみると、1943年に成瀬巳喜男監督が映画化した作品があり、主演の門付け役を演じる新派の名優花柳章太郎が「博多節」を唄うシーンが出てくる。この映画は、当時の国家総動員体制下で日本古来の伝統芸能を主題に据えた作品として映画化されたものであるから、全体を通して三弦の根が次から次に聞こえては来るし、能や謡のことが沢山盛り込まれているのであるが、中でも花柳章太郎の「博多節」には惚れ惚れする。きっと門付けの「博多節」が嫌われたという風聞が正しいのであれば、映画ではなく実際の門付けの三味線と声は相当酷いものだったのであろう。

十日戎

2024年は甲辰。自分にとっては還暦を迎える年でもあり、大厄の年でもある。ということで、厄払いの神社として有名で厄八幡の愛称で親しまれている博多区の若八幡宮で厄払いを受けてきた。それから今年は仕事の面でも転機を迎える年なので、商売繁盛にあやかろうと博多区東公園にある十日恵比寿神社にも参拝した。ちょうど博多の芸者衆による「かち詣り」の日でもあったので、参道は長い行列であった。1時間近く並んだ後にようやくお参りを済ませて、初穂料三千円で恵比寿様の顔が書かれた授与福引券を買った。福引を引くと、残念ながら「大当たり~」という声はなかったが、タペストリーのカレンダーと福笹をいただいた。こちらの福笹は、鯛の絵の下に十日恵比寿神社と記されたお札があるだけのシンプルなものである。

せっかくなので、三下がりの「十日戎」の稽古をつけていただくことにした。関西が本場だけあって、賑やかに昔から十日戎の境内で売られていたものが歌詞に並ぶ。煎袋(はぜぶくろ)(ポン菓子の入った袋)、取り鉢(金銭を受け取る器)、銭叺(ぜにがます)(金銭の詰まった藁袋)、小判、金箱、立烏帽子、茹で蓮(ゆではす)(金を増やす意味での茹でた蓮根)、才槌(さいづち)(小型の木槌)、束ね熨斗(アワビの肉を薄く削ぎ引き伸ばして乾燥させたもの)。これらが本来神社から授与される吉兆として福笹につけられるのである。博多の福笹に比べると関西の福笹は賑やかしくて、いかにも良い年を迎えられそうな気がする。この「十日戎」の曲は一度聞いただけで記憶に残るような旋律なので、替え歌も多いようだ。三味線の手も難しくない。自分の手元にある譜面には「当時東京で流行っているものは」として、帝国座、国技館、人力車、活動写真や自動車などが歌詞に並んでいるものも掲載されている。この歌詞は「年中行事」の曲を思い出されるなと思っていたら、やはり益田太郎冠者に寵愛された浅居丸子さんがよく唄われていたものらしい。他に手元にある『博多のよかうた よかここち』というCDには、博多の粋な唄を歌う本永二郎氏による「十日恵比寿」が収録されているが、こちらには、「献上博多の帯しめて 御寮さんも縁起でかち詣り」という博多らしい歌詞も見られる。

吉原夢淡雪

吉原に繰り出すところから、首尾よく契りが交わされるまでの物語として仕立ててある俚奏楽である。曲の冒頭は佃の後に「吹けよ川風」から始まり、髪結新三の話のように誰かがひょっと登場するような隅田川の情景から始まる。唄がいきなり高音部から始まり、三味線の手とは全くぶつかっていないので、この俚奏楽の中でも弾き唄いをするのが最も難しい。太鼓のズドンドンという音が入り再び佃に戻って、「二挺立ちェ 三挺立ち」という声がかかる。最初聞いたときは、猪牙船が二艘、三艘という意味かと思ったら、漕ぎ手が二人、三人という意味らしく、要は吉原まで特急、超特急で行くという意味だった。曲は有名な端唄「柳橋から」に変わり、歌詞どおりに船から土手八丁に上がり吉原に入門となる。

吉原に入ると三味線は「清掻」となり、遊女が店先に並んでいるような情景が浮かぶ。「春がすみ(助六より」と曲が変わり、助六が花道から出てくる。浄瑠璃チックで江戸っ子らしいセリフをたっぷり聞かせる場面になっている。元は河東節から来ている曲なので、三味線の手も普通は1の指を使うところが3の指を使って音を柔らかくしている箇所もある。曲は次に「吉三節分」と変わり、雪が降ろうがみぞれになろうが、吉原に居続けることとなる。そして最後は「蘭蝶」で締めることとなる。三味線の手もわざと勘所を意識しないでいやらしく弾く箇所も出てくる。蘭蝶の中には謡がかりとして「高砂」が入っており、二人が結ばれたことを表現している。この蘭蝶部分は言わずもがな唄が極めて難しいし、弾き唄いでなくとも唄い手と三味線とが息があっていないと台無しである。この「吉原夢淡雪」を一人で弾き唄いできるようになれば格好の良いことこの上なしであろうが、なかなかそうはいかないのである。

雨の月

日本の蘇州と言われた潮来の雨月の情景をイメージして作られた作品であり、舞踊でもとても人気がある。作詞はふじ・なみ女さんが選定された俳句を並べて構成されている。初期は「女と雨」というタイトルであったようであるが、改題されている。曲の冒頭は、霧のような雨により遠くまで見えないようなモノクロの風情を思わせるトレモロから始まるかと思えば、雨だれを思わせる滴音が連なり寂しげな曲調になる。唄が始まった後も三味線の運指をパラパラと自然に離す箇所があり、雨の情景が続いてゆく。三味線の手で難しいのは、ここまでの間に音が伸びていることを表現するために独特なウラハジキをするところが3箇所あるのだが、3箇所とも間の取り方が異なるのだ。特に唄が始まったあとに再び滴音を思わせるために登場する最後のウラハジキは、その直前の休符との間で3連符になっており、自分では弾ききることができない。最初のウラハジキの後にはむせび泣くような二胡の響きが入ってきて、一気に雨が降る水辺の景色が表現されている。

その後、二上がりから三下がりに調子が変わり、合方になって新内のように三味線が掛け合いとなり、ふんわりと気分が変わる。その後、濡れた髪から丁子臭を練りこんだ鬢付け油の香りがするという少々色っぽい唄を聞かせる。そしてやや賑やかに日本人のDNAに響く旋律として「新潟おけさ」からイメージされたテンポ感のあるオリジナルのフレーズが流れてくる。最後に、おしろいの襟足が道のようになっていくイメージでクライマックスに入っていく。三味線のアクセントの取り方が非常に難しいパートがあるが、最後まで聴衆に耳を澄まさせる構成となっている。三味線の演奏としては非常に難しい曲であるが、大変に情緒的で素敵な曲である。

傘の雪 ~鷺娘~

前回紹介した雪月花3部作の”雪”にあたる俚奏楽である。長唄「鷺娘」を土台にした作品となっている。この俚奏楽は道成寺物の「鷺娘」のあらすじをなぞる形で展開する。冒頭では、淡雪が降る一面雪景色の中で鷺にも見える娘が登場する。三味線でも淡雪が降る情景を思わせる演奏から始まり、片足をあげる白鷺のなんとも幸薄そうな姿を通常使わない三味線の手で想像させる。その後、須磨の浦辺を思わせる波を意識した三味線の手に移り、娘の恋心と「須磨の浦辺で汐くむよりも主の心が汲みにくい」と、とらえどころのない男の心をなじる様子を描く。その後、舞踊であれば傘づくしのシーンとなり、三味線も華やかなテンポに切り替わる。この後、三味線は長唄「鷺娘」の合方を取り入れる形となるので、耳に馴染んだフレーズを聞かせることで観客を安心させる演出となっている。最後は「鷺娘」の地獄の責めの幕を迎える。曲調は変わり、「羅生門」での三味線の手を思わせるような恐ろし気な曲調になる。物狂おしく恨みをこめた娘が鳥の姿になり、邪見な刃で切り裂かれた肩口から血をにじませながら、降りしきる雪の中で恋のために落ちた地獄の責めに苦しもがきながら息絶えていくという「鷺娘」の有名な結末で終える。

ところで、この「鷺娘」の演目に採用されている鷺という鳥であるが、確かに一羽だけであれば派手さがなく誰の目も引かない鳥であり、その佇まいが寂しげな様子を表すのにぴったりであると思う。しかしながら、鷺がたくさんいて大家族であることを目の当たりにすると、鷺のイメージは一変する。実は私が毎日散歩しているコースには自然のままに残された野鳥観察園があるのだが、そこは鷺が多数繁殖している地元では有名な場所であり、素人カメラマンがよく集まる場所になっている。私は鷺の専門家ではないので、正確ではないかもしれないが、アオサギ、ダイサギ、ゴイサギと思われる複数種類の鷺が多数繁殖していてなんとも逞しい。とても「鷺娘」のような侘しさは感じられないのである。

心の花

大作である雪月花の3部作からなる俚奏楽の”花”にあたる曲である。切ない娘が大蛇と化して愛する男を焼き殺したという有名な道成寺伝説をもとにしてつくられた。女性の恋心の深さを花にたとえ、曲中に様々な花の名前が散りばめられている。あやめ、かきつばた、朝顔、梅、桜、そして柳まで。咲いた花なら散るのが運命なのに誰が散らしてくれるのか、私は散りもせずに朝顔のように咲いたばかりですぐしぼむ、と女心が歌詞に写されている。三味線の手も通常使わない手で音の強弱を変化させたりするところや、通常ゆすらない勘所をわざとゆらすところがあって、女心の不安定さを表現している。曲の途中では三味線の手を細かくスクウところが何か所もあり、小指を皮につけて少し撥を立てぎみにして演奏する。曲の終盤は本調子から二上がりになり、梅の匂いを桜に持たせ、ならば柳に咲かせたいと唄わせる。三味線の手は「梅は咲いたか」の有名なフレーズをバックにしながらクライマックスを迎え、まるで道成寺のクライマックスを予感させるような雰囲気で終わる。まさに百花咲き乱れ、いかに女心をとらえるのが難しいのかとあらためて感じさせる曲である。

蛍茶屋

鶴の港の長崎を舞台に、二人の別れをうつくしい”甚句”の旋律で表現している俚奏楽であると、解説されている。唄の冒頭から、「鶴の港」「伴天連」「オロシャ」「ビードロ」と長崎を彷彿させる言葉が並ぶ。長崎港周辺は今は埋め立てられていて、どこに鶴の姿の名残があるのか想像しようもないが、浜町や築町が埋め立てられていない時代の地形を作成された方の地図を見ると、鶴が首を下に向け翼を広げている姿に見えなくもない。いずれにせよ、鶴のように美しく、そして当時の長い岬が鶴の首のように細長かったという共通点でそう称されたのであろうと想像する。三味線の方は、いきなり長崎由来の「春雨」の一節から始まる。「春雨」は以前に「年中行事」の元唄であると紹介したが、今でも残る長崎花月にある日本初の洋間(春雨の間と呼ばれる)で生まれたとされている。江戸時代に柴田花守がこの部屋で作詞し、遊女を鶯に例え、いつか男性と結ばれることを願う遊女の想いを込めてつくられたとされている。「春雨」に続いては、三味線はウラハジキなど細かい繊細な手を経てから、一気に力強く「長崎ぶらぶら節」の一節に移る。まるで長崎のガイドブックの要所要所を見ているように曲が展開する。そして曲調は「さわぎ」のように一転し、三味線総出の賑やかで陽気なパートとなり、いとしいお方へとの数々の楽しい思い出が回想されるようである。この「さわぎ」のように一転するためには、気持ちを入れ替えて三味線を演奏する必要があるが、なかなか難しく、どうしてもダレてしまうので、何度も練習した。そして最後は、がらっと様子が変わり、長崎甚句に乗せながらいとしい方との別れを惜しむ峠の茶屋までの情景でエンディングとなる。三味線の手は曲の元の節を思い出させるフレーズで終わりとなる。なんとも長崎の情景描写に溢れる素敵な曲である。