三味線堀跡

以前より都内の古い地名で気になっていた。もう昔の三味線のような形をした堀はないと聞いてはいたが、何がしかの痕跡がないものか、この目で確かめてみたかった。JR御徒町駅から厩橋方面へ歩いていくと、日本で2番目に古い商店街である佐竹商店街の入り口に差し掛かる(日本最古のものは、金沢市の片町商店街らしい)。商店街の端に掲げられている台東区教育委員会の説明板によれば、元禄二年(1689)か三年頃に、今の台東区台東三・四丁目付近は、出羽国久保田(秋田)藩の上屋敷があった地であったらしい。東北地方屈指の外様大名である佐竹氏が藩主で、二十万余石を領有していた。佐竹家八代藩主佐竹義敦には、洋風画や狂歌を手掛ける藩士がおり、当時の文化人がこの地を中心に活躍していたそうである。明治になって、佐竹家上屋敷や近隣の武家屋敷が撤去され、当地は野原となり、俗に佐竹っ原と呼ばれるようなところだったとか。見世物小屋が集中して賑わったが、明治半ばから民家が立ち並び、商店街として発展したと記録されている。現在、商店街の冠で佐竹の名を唯一残している。商店街の規模としては、戸越銀座商店街や武蔵小山商店街などと比べるほどもなくこじんまりとしていて、自分が通った時間帯が原因かもしれないが、シャッターを下ろしている店も多く、やや薄暗い感じであった。

この佐竹商店街を通り抜けたところにある佐竹通り南口交差点の向い側に、年代を感じさせる都営台東小島アパートがある。ここが三味線堀の跡だ。このアパートの一角でも台東区教育委員会の説明板が貼ってあり、三味線堀とは何かを説明している。三味線堀とは、現在の清洲橋通りに面して、小島一丁目の西端に南北に広がっていたもので、寛永七年(1630)に鳥越川を堀り広げて造られ、その形状から三味線堀と呼ばれたものだ。古地図を見ると確かに、三味線を横から見たような形状に見えなくもない。不忍池から忍川を流れた水が、この三味線堀を経由して、鳥越川から隅田川へと通じていたもので、堀には船着場があり、下肥・木材・野菜・砂利などを輸送する船が隅田川方面から往来していたらしい。天明三年(1783)には堀の西側に隣接していた佐竹家の上屋敷に三階建ての高殿が建っており、大田南畝がこれにちなんだ狂歌を残していると記されている。「三階に三味線堀を三下り二上り見れどあきたらぬ景」。三味線の調子にうまく引っかけてある。極めて残念なことに、明治末期から大正時代にかけて、市街地の整備や陸上交通の発達に伴い次第に埋め立てられていき、その姿を消したのである、と説明板では締めくくられている。実際に都営アパートを一回りして、何か三味線堀の痕跡がないかと探してみたが、確かにその姿はなにもなかった。残念である。せっかく鳥越まで来たのにという気持ちであったが、帰りに立ち寄ってみた「おかず横丁」の中に山田象牙店という珍しい店を発見したので、少しは来た甲斐を感じた。